昭和48年03月28日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと、ここのところがハッキリ分からせて貰わないと、例えば信心はしておっても火が点る程しのおかげになってこないと思う。信心とは病気直しではない。災難避けじゃない。心直しの神じゃと、四神様が教えておられるのはその事。信心とはもう吾が心が神に向かって進んで行く、その事をこの頃ここではお改まりと言われております。
おかげを頂くけん参りよると、成程それがあっていけんというのじゃない、おかげを実際受けるから。けれども本当は自分の心が一歩でも神様に近づいていくと言う事は、神様に近づくと云うと大変こう難しい様でありますけれども、私の心がです、穏やかになってきた、和らいできた、時々ではあるけれども信心の喜びを感ずる。それなんですよ、わが心が神に向かって居るしるしです。
おかげで今頃は腹が立たん様になってきた。心が神に向かうというのはそういう生き方をです、いよいよ極めていくと言う事なんです、信心とは例えば、尺八の音色と云うものは、誰が聞いても素晴らしい音色です。けれどもそれを難曲であれば難曲である程です、難しいものであれば難しいものである程それを吹きこなしていく稽古をすると言う事なんです。どういういろんな問題があっても、難問題があってもです。
それを信心に依って信心の心に依ってそれを取り組ませて頂いたら、こういう力が受けられる、こういうおかげが展開して来るというのです。楽しいです。ですから、自分の吹き鳴らす、いわば尺八の音色に他人も聞いて素晴らしいと思うなら、自分自身もその音色に聞き取れていくというのが信心。わが心が神に向かうというのは。信心をして居れば一年一年有難うなってくると仰るのはそういう稽古をするからです。一つだけ吹き習うてから後は稽古せん、一つばあっかり吹きよるけん、もう飽きてくる。
次から次とです、いわば難曲に取り組んでいく、そしてそれを吹きこなしていく。どういう問題であっても信心一本でおかげを頂いていくと言う様な事なんです。わが心が神に向かうというのは、勿論生神様に向かうてんなんてん、余りに恐れ多いというか、とても生神様にはならんでよかとかと言った様な感じがするんですけれども、やはり生神様へ向かって一歩一歩近づいていく。そういういわば姿勢をとると言う事が信心だと、それが大改まりだと。信心とはそうだと思い込ませて貰う。
そこに例えば、問題があっても、難儀があっても、その問題難儀のおかげで、信心が進みますと言う事になる。その事のおかげで和賀心が、又一歩神様に近づいて行くことが出来るようになる。だからここのところは、真の信心の根本のところをこの、二十一節は教えておられます。先日ここで青年教師会が有りました時に、本部の学院長であります出川先生が講師として見えられました。そのお話の中に、学院生に対する試験問題にこの二十一節を出した。
ところがある学院生がその答に書いている事に「信心無ければ世界が闇なりとあるが、信心ある故世界が闇なり」と書いてあった。というてまあ笑い話の様にしてお話してありましたけれどもです、これはもうあながち笑い話ではない、本気でやっぱりそこんところを取り組ませて頂かねばならないと思いました。信心ある故世界が闇なりと、私は今朝方からお夢を頂いたんですけれども。竹内先生御夫妻と私と、もう一人竹内先生年輩位のこれはもう立派な紳士の方。
全然知らない方その四人で北京に行っておるというお知らせのお夢でした。北京という所は私が十年間おった所ですから大変詳しく知っておりますから、その支那人の食料品をやってる大変信用のある店ですが、それが丁度大晦日のようです。明日が正月と言う所、それで何も用意しとらんから正月用品を買わんならんから、よか店が有るならというから、そんならこの店が大変信用のあるよか店ですから、ここから買いなさいと。私共は車の中で待っとったらあちらの奥さんがその正月用品を買いにその店に入られた。
そしてこんなしょうけのごたるとに入れてみえたのが、もうあんな橙見たこと無い、こんなに大きな橙。正月の時使いますね、橙、みかんの一種です。そうするとその橙と代わらん位に大きなまん丸い人参。こんな人参見たことがない。ですけどまあそこは御理解でしょう。そしてこれで正月が迎えられるというところで眼を覚ました。私はどう言う事だろうかと思う。橙というのは小倉の教会の宝物になっておる。四神様からお受けになられたね、お下がりを頂かれた橙がです、今にとって有る。
それがもうカチカチになってですねえ、小倉の記念祭かなにかの時には拝ませて貰えれると言う事ですけれども、私は写真で見たけれども実際には見たことありません。それがね、代々丸くという御理解を頂かれたそうです。正月にも代々繁盛というそういう意味があるらしいのですけれども、まあだいだいというのはそう言う事だろうとこう思うたけれども、人参のこうまん丸いというのはですねえ、私はどう言う事だろうかと思うた。そしてどういう訳に北京という。
又北京で私の知っておる信用のある人のお店と言う事はどういう様な事であろうか。又もう一人の全然知らない人が一緒であったと言う事はどう言う事であろうかと私は思ったんです。だからそれは、私共がね、いつも申します様に、同行二人紳士という感じですから。紳士というのはまあ神様へ仕えられる人というのじゃないでしょうか。いうなら金光大神と言う事じゃないでしょうか。いつの場合であっても金光様と二人だという、金光様がついておられると言う事じゃなかろうか。
北京と言う事は北の京(みやこ)と書いてある。いわゆる東京というのが東の京と書いてある様にだから私共は勿論そこは外国ですけれども、日本の領土とは比べ物にならない程広々としたお国ですよねえ、中華民国ですから。そういう外の国というか、外国というか、自分の心の中にそれこそ狭い日本には住み飽いた。支那には四億の民が待つというあの馬賊の話があります様に、そういう例えばもっともっと広々とした世界を開くと言う事だと思いました。自分の心の中に。
小さい根性、いわゆる島国根性そういうものではなくてです、もっともっと広い広い世界を自分の心の中に開くと言う事。小さい国よりもやはり四百、四州と言われる程しの支那大陸に迄、光が及ぶと言う様な光を頂きたいと私は思いました。まあ今日のご理解からいうと同時にまん丸い人参。人参のお知らせというのは恥ずかしい修行をする時と仰る。けれどもこれは大変力になるです。それこそ面から火の出るような恥ずかしい思いをすると申しましょうが、真っ赤になる。
だから人参のお知らせは恥ずかしい思いをする。あっちは信心さっしゃるのに、どうしてあげん貧乏さっしゃるじゃろうか、あっちは信心さっしゃるのにどうしてあげな問題が起こるじゃろうかという時には、もういちいち言い訳をして回りたい程しに。それでも私の心の中にはこんなに有難い、こうですよ、こういう御都合ですよと言うて回りたいごとあるけれども、それを言わずに黙ってです、それを自分の心一つに受けて受けて受け抜かせて頂くと言う事。昨日の御理解でいうなら。
天地の親神様も受けて、受けて受け抜かせて下さるところにです、私共もそれはどの様な苦しいことであろうが、恥ずかしいことであろうが、受けて受けて受け抜かせて頂くうちにです、こんなにまん丸い大きな人参になっておる。それが力になる。その受けて受けて受け、貫かなければならない時にです、はあほんに信心しとらんならここで一口言いたいばってんと言う様な事が、私は信心しておる為に、却って闇と言う事になるのじゃないでしょうかねえ。
信心しとらんならここで本当にもう、こうも言いたいこうもしたいと思う様な時もです、信心させて頂いておるから、ぐっとこらえるという辛抱せんならんという時代が私は闇だと思うですね。けれどもそれが辛抱させて頂く有難いと言う事になったら、もうこれは一つの光であります。そのああいう恥ずかしい思いをする様な事が続いたけれども、その事の後にはこういうおかげを頂いてと、心の光というものがいうならば日本だけではない、いうなら世界に光が輝き渡るという程しおおかげの事だと私は思うた。
今竹内先生あたりが、ああして伊万里の市長としての御用が出来ておられます。もういうなら信心一途で行かれます。ところがそんなら市民の中にはです、そういうふうたらぬっかこつでどうするかと、それはもう本当に面火の燃える様なことを言うたりする人がやっぱり有るらしいです。そういう様なことじゃなかろうか。今時はもう言論の自由ですから市長じゃろうが誰じゃろうが、もうそれこそくそのごというとをよかとのごと思うとるとがおるとじゃけんなあ。
だからお前が何を言うかと、いうなら市長の権力を持って、言えんことはないのだけれども、そこは竹内先生ですから、まあぐっと辛抱なさる時等は、やはり暗い思いをなさる時でもあろうけれども、その力がこんなにもまん丸くなって大きくなっておる。橙と同じ位の大きさのまん丸さになってる。私共も通りました。本当にそういう様な場合がありましたけれども、それがおかげを頂いて参りますうちにそれがだいだい、代々のいうならそれが力になる。
ホーレン草とか人参というのはいよいよ栄養の力のつくお野菜だと言われておりますが、そういう所を通らなければならない時は、やはり心が闇になることが有ろうけれどもです、信心ある故世界は闇なりとその学院生が言うたと言う様な事もです、そういう様な意味の事も含めて言うたのではなかろうかと私は思います。だからそういう、そんならおかげを頂かせて頂く為には私共の心がです、もう本当に信心に心が向いておらなければ、わが心が神に向かうておらなければ。
いわゆるおかげという方から回れ右をしておかなければならない。だから、神様はこの様にして神に近づかせて下さるんだ、この様にしてわが心を鍛えて下さるのだと言う事になる訳です。成程神に向かうという信心姿勢をとっておかなければ、後のところがです、いよいよ神様に向かって進んでいくという、いわばチャンスとか材料を与えられてもです、それをよいチャンスにしきらん。
それを力の付く材料にしきらんと言う事では、いつまで経っても信心が堂々回りと言う事になるのじゃないでしょうか。その堂々回りの信心、堂々回りのおかげしか頂かんところにです、子供も孫もついちゃ来ない。ほんにうちの親が信心しよるけん俺達迄がこげな苦労せんならんと言った様なことにもなりかねない。そこには、成程信心が有る為に世界が闇なりと言った様な事もです、言う様なことになるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。